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2022.11.03
源平の内乱や平家一族の盛衰が描かれた『平家物語』。800年以上の時を経た今でも忘れ去られることはなく、その生き様をモデルに近年では大河ドラマ『鎌倉殿の13人』やTVアニメなども制作されている。
『平家物語』の後半では、数え年で8歳の安徳天皇が祖母と入水する場面が描かれ、悲劇的な最期を迎えた天皇として記憶している人も多いだろう。
しかし、徳島県の三好市では「実は安徳天皇が生き延びていた」という逸話が残っているのだ。今回は「もうひとつの平家物語」が語り継がれる徳島の秘境を訪ねた。
※『平家物語』(国立国会図書館)を加工して作成
『平家物語』の冒頭は、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」から始まる。作中では栄華を極めた平家一族が滅びゆく様が描かれており、どれほど栄えた者でもいつしか終わりが来るという、この世の無常を説いている。
「もうひとつの平家物語」を見ていく前に、まずは平家の歴史を改めて確認していこう。
※『清盛日を呼び戻す図』(国立国会図書館)を加工して作成
「平」の名が使われるようになったのは、825年ごろのこと。第53代・淳和(じゅんな)天皇が、異母兄弟である葛原(かずらわら)親王の息子たちに与えた名だと言われている。
また、平氏の多くは文官に就いたが、桓武天皇の曾孫・高望王(たかもちおう)の子孫は、武家として着々と力をつけていくことに。特に武家政権が始まるきっかけともなった「保元の乱」以降、平氏は強大な権力を得ることとなった。
※『源義経出陣之図』(国立国会図書館)を加工して作成
源氏との戦い「平氏の乱」でも勝利を収めた平氏だったが、一族の繁栄は長くは続かなかった。1180年の「富士川の戦い」では源頼朝が平氏を打ち破り、続く「一ノ谷の戦い」や「屋島の戦い」で平家は追い詰められてゆく。
そして、平家一族の最期となったのが1185年「壇ノ浦の戦い」だ。この戦で敗れたことがきっかけとなり、清盛の正室・時子は孫の安徳天皇とともに心中することを決意。わずか8歳の安徳天皇を抱いたまま船から飛び降り、入水したといわれている。
※『大日本歴史錦繪』(国立国会図書館)を加工して作成
『平家物語』では安徳天皇が祖母・時子とともに身投げしたと記されており、これまでに見聞きしたことがある人も多いだろう。
しかし、徳島県の祖谷(いや)には「もうひとつの平家物語」と呼ばれる別の逸話が伝わっている。それは、壇ノ浦で亡くなった安徳天皇や平国盛、時子たちは実は影武者で、祖谷の地に逃げ延びたというものだ。
平家一門は幼い安徳天皇を守りながら、何を願ったのか。パート2では同地を訪ね歩き、歴史を紐解いていこう。
>>徳島県三好市の秘境・祖谷に伝わる逸話|『平家物語』には続きがあった?Part2
編集:男の隠れ家デジタル 文:菅堅太 撮影:井野友樹