三村用水 さんそんようすい
山本新太夫翁は今から約200年前芝生村で生まれ、庄屋助役として庄屋平尾集兵衛とともに活躍していた。
文化三年、吉野川北岸一帯がひどい干ばつに襲われ、農民は重税と飢饉に耐えられず讃岐に逃散した。庄屋と相談し、失敗すれば切腹して詫びるという血判状で水路を作る藩の許可をもらい、二年後、難工事を完成させた。
しかしその後、毎年氾濫する土砂で水路が埋まり、思案しているうち、九州の炭坑夫の話にヒントを得て、トンネルによる用水路の開削を思い付いた。翁は、財産と引き換えを条件に許可を取り、山の中を掘り抜き、文政十年の晩秋、大きな犠牲と幾多の困難に打ち勝ち、長さ268.5メートルの用水路が完成した。
この用水路のおかげで三村(加茂野宮村・勢力村・芝生村)はうるおい、芋が主食の貧乏村は豊かな穀倉地帯となった。